1966年から行われている庄助おどり(写真は2019、筆者撮影)
会津磐梯山 なぜ「庄助おどり」
ここ会津喜多方会でもおなじみの「会津磐梯山庄助おどり」ですが、さて、なぜ「庄助おどり」というのか。ご存知でしょうか?
実は「庄助おどり」という喜多方だけの振り付けがあったのです。
そもそも、喜多方では御清水など公園の盆踊りはありましたが、目抜き通りを使っての踊りはありませんでした。それが、目抜き通りで踊るというのが会津若松の神明通りで始まり、それに負けるなと始めたのです。
鶴ヶ城再建が大ショック
若松のきっかけは昭和40年(1965年)の鶴ヶ城再建です。9月の会津祭りの一環として神明通りの「会津磐梯山踊り」が始まったのです。会津のシンボル、鶴ヶ城天守閣が再建され、若松観光が俄然注目されました。「取り残されるのでは」と危機感を深めたのが喜多方の皆さんでした。「鶴ヶ城ショック」です。そして翌昭和41年の夏に喜多方で始まったのが「庄助おどり」でした。
「会津磐梯庄助踊りを喜多方独特の名物踊りとして広く各地に紹介し観光客の誘致を盛んにして伝統あるものとし他に負けない観光都市を築きたいと念願しております」。当時の喜多方商工会議所、鶴巻伸樹会頭の言葉が「会議所ニュース」(昭和41年7月)に残っています。そこには「これぞという特色のない喜多方を如何に売り出すか」(山口俊三市長)など大きな期待が記されています。なにしろ当時は後に観光の目玉になる「蔵の街」も「ラーメン」も、市民に意識されていなかった時代です。
音頭をとったのは商工会議所でした。例年11月開催の「商工祭」を8月の諏訪神社(2~3日)、出雲神社(10~11日)の祭礼の間の8月5~6日に開催することにしたのです。
「小原庄助さん」の振付登場
「庄助おどり」を名乗ったのは、「小原庄助さん」の部分で新しい
振付を入れたからです。花柳流の師匠が、下町北部の私の実家の蔵
座敷で講習会を開いていました。日本舞踊調であり、庄助さんらし
くひょうきんなしぐさもある踊りだったような記憶があります。
当時盛んだった民謡会の方々などが習ったようです。
そして公式のお囃子として笛の名手、遠藤清吉氏を中心に編成され
たのが「会津喜多方祭囃子盆踊り保存会」でした。前年に商工会議所
の専務理事に就任した私の父保雄が自ら会長として世話をしていたの
で、私にもいろいろ記憶があります。裏通りにある土蔵(現在は
居酒屋「楽気(たのしげ)」)の2階をお囃子の練習場として提供
しました。週何回か夜に稽古をしていて、近くの料理屋から苦情が
出たこともあったようです。
その年の8月4日、前夜祭の厚生会館で新しい踊りを発表、翌
5日、6日と目抜き通り1・2キロを使って最初の「会津磐梯山
庄助おどり」が開催されました。(その後、8月14、15日となり
現在は踊りが14日、15日は太鼓台競演に)
難しすぎて踊れない?
さて、大通りを埋め尽くす踊りのイベントは大好評でしたが、一つ困ったことがありました。庄助さんの部分が難しすぎて踊れないというのです。祭りが終わって出された「会議所ニュース」(10月5日付)には「庄助踊りの振付を簡単に」という見出しの記事が載っていました。9月に開かれた反省会では、「祭りは大成功で来年はさらに盛り上げたい」とする一方で、「振付をなおし誰でも気軽に踊れるようにしたいと意見統一がなされた」とありました。歩きながら踊る「行進踊り」には難しいということのようでした。
その結果、翌年からは徐々に「庄助おどり」の振付で踊る人は減り、今では名前だけが残ったと言うことです。
しかし、今は便利な世の中です。その一端を簡単に見ることができます。先ほどの保存会の皆さんが2019年の東北絆祭で実演した動画です。庄助おどりの原点をご覧あれ。
保存会は庄助おどりの発祥とともに歩み、夏の庄助おどりの歌とお囃子はもちろん、太鼓台のお囃子も全6曲の伝承や指導に励んでおられます。また全国各地の催しでも常連格で、まさに「会津一のお囃子」です。会津喜多方会の懇親会には平成3年(1991年)以来、欠かさず来ていただいています。これからも声援を送りたいと思います。
(資料は庄助おどり開始前後の『会議所ニュース』や保存会50年の冊子を参照し、保存会副会長の風間勝氏にご教示いただきました)
文・会津喜多方会 会長 冠木 雅夫
最初の夏祭りと、庄助おどりを予告する会議所ニュース