top of page
喜多方ラーメンイメージ.jpg

喜多方ラーメン史早分かり

〜先覚者の皆さん〜

 喜多方ラーメンの歴史を簡単に紹介しようと思います。まずは、ブームに先立ち、その豊かな基盤を作った先覚者の皆さんについてです。
 喜多方ラーメンの元祖と言われるのは源来軒の潘欽星(ばん・きんせい)さんです。お土産パッケージにあるにこやかな写真が印象的な方です。
 潘さんは1906年中国浙江省生まれ。

両親と死別し、日本で働こうとまず長崎に渡りました。

大正14年(1925年)、19歳の時です。

横浜、東京で土木作業員をし、昭和2年(「大正末期」

説も)に加納鉱山で働く叔父を頼って喜多方に来たそう

です。しかし鉱山で仕事はできず、屋台で支那そばを

り歩くことにしました。故郷を思い出して見よう見まね

で作ったのが「平ったくて、太い麺で、縮れ麺」。

太麺は出前で伸びないため。縮れは 「つゆをうまく

絡み合う工夫」とのことでした。潘さんの偉いところは

麺やスープづくりを秘伝とせずに広めたことです。

弟子は100人といわれ、昭和61年に市の産業経済功労者として表彰されました。
 次に、上海食堂です。終戦直後に旧満州から引き揚げた長島ハルさんが開いた店です。大陸ではクリーニング店を営んでいたそうですが、近くに駐留する喜多方出身の兵士にラーメンを振舞って好評だったそうです。ハルさんの母親が好んだ上海料理がベースの塩味ラーメンでした。
 その上海食堂で店員として働いていたのが、坂内新吾さんです。出前先で知り合ったヒサさんとの結婚を機に、昭和33年に独立して坂内食堂を始めました。上海食堂仕込みの塩味ラーメン。ダシは豚骨が基本で隠し味に醤油が少し入っているそうです。開店当時は一杯40円、たばこ「新生」と同じ値段でした。
 そして「満古登(まこと)食堂」です。初代の佐藤ウメさんは、最初は麻雀屋、その後下宿屋とうどん店をやっていたそうです。下宿していた若い女の子に「おばちゃん、東京では支那そばが流行っていた。やってみたら」と言われたのがきっかけだそうです。醸造元と相談した特注の醤油をベースに、煮干と豚骨でダシをとる支那そばを作りました。これが喜多方の醤油ラーメンの基本になったそうです。
 こうして塩味の「坂内」と醤油味の「満古登」が、後の喜多方ラーメンブームの起爆剤になったというわけです。
 ここで忘れてはいけないのが製麺です。機械打ちの麺を量産した蓮沼季吉さんです。医師を志して東京で勉強していましたが、二人の兄が戦死し、家を継ぐべく帰郷したそうです。都内では鍋などに小麦粉を入れて並ぶ行列が目につきました。加工賃を払ってラーメンを打ってもらっていたのです。蓮沼さんは「俺は喜多方で機械打ちラーメン製造をやる」と決意し、ふるさとで最初の製麺所を始めたそうです。現在のはすぬま製麺(有限会社永善)です。お手本にしたのが、すでに屋台をやめて喜多方駅近くに開店していた源来軒の手打ちラーメンのようです。「平ったくて、太い麺までは機械で打てたが、……試行錯誤して縮れ麺になるよう機械を改良」したそうで、これが『手打ち風の喜多方ラーメン』のルーツになったといわれます。蓮沼さんの製麺所で働いていた方々が独立し、新たな製麺所を開業するという動きにもつながりました。その一人が曽我製麺の創業者、曽我忠英さんです。「手打ち」だけでは多くの需要は満たせません。機械打ちによる「手打ち風」生産が「喜多方の支那そば」の普及に大いに寄与したといえるでしょう。
 このように、いくつかの先駆的なお店と製麺所、そこでの技術革新によって、美味しい喜多方ラーメンの素地が地道に築かれていったのでした。
 では、そのように知る人ぞ知る美味しいラーメンが、どのようにして、全国的な評判を得ることになったのでしょうか。
 大きかったのは、喜多方の蔵が注目されたことでした。蔵観光で来た人の昼食というコースができあがり、市役所も仕掛け人となってラーメンのPRに精を出しました。札幌、博多と並ぶ日本の三大ラーメンと呼ばれるようになったのは昭和60年代初め、市や商工会議所、有力店が音頭を取り、ラーメン店40軒、製麺5社が加盟した「蔵のまち喜多方・老麺会」が発足したのが昭和62年3月でした。このあたりからの経緯は、また機会がありましたらご紹介しようと思います。
<富山昭次著『木偶の坊仕事人』(正・続)、中原明企画『デジャヴュな街・喜多方』、『喜多方市史』第3巻、「麺匠はすぬま」ホームページを参考にしました>
 

「麺食」創業者中原明さんの

喜多方との出会い

 「喜多方ラーメン坂内」を全国展開する「株式会社 麺食」。創業者の中原明さんに喜多方との出会いを聞きました。
 そば職人の腕に自信があった中原さんは、国鉄の関連会社で役員としてそば・うどんの店を営んでいました。折しも国鉄が民営化を準備している時期。「駅から街に出てラーメン店を開業する」ことを決意します。では、どんなラーメンをやろうか、ということで1年以上全国を食べ歩いたのですが、なかなかいい出会いがない。そんな中で大阪に出向いた帰途のことでした。
 伊丹空港からの機内で、近くの席で少し酔った男性客二人が話をしていた。「おい、おめえよ、喜多方ラーメン食ったか? あの街はすげえな」。中原さんは「そんなすごいラーメンが?」と気になったものの、喜多方がどこにあるかも知らなかった。会社に帰って調べた上で、喜多方を訪れたのだそうです。

 

 その喜多方では、上海、満古登、坂内などを食べ

歩き「麺のグレードの高さに驚いた」というのです。

「この麺はすごいな、どこの製麺屋さんだろう」と、

八七一タクシーで曽我製麺に案内してもらった。

工場を見学して「その純粋な作り方」に驚いたとい

います。店で見習いをしたいと思い探していたら、

社長(当時)の曽我忠英さんが坂内食堂の坂内新吾

さんを紹介してくれたとのことです。
 坂内食堂で見習いを約1週間。特に目をひいたの

が肉でした。「当時、チャーシューは豚の肩肉を糸で縛って作っていた。ところが坂内のお父さん(新吾さん)は、肉のうまいのは三枚肉(バラ肉)だろうって」。「酒好きで、知り合いが来たらサービスで肉をポンポン載せて、コップ酒付きで出していましたよ。お母さんにいつも怒られてた(笑)」
 その成果がJR発足と同じ昭和62年4月に東京・新橋のガード下に開店した「くら」(現在は「坂内」)です。坂内食堂と曽我製麺が協力してくれました。翌年独立して設立した「麺食」は現在、国内64店、米国6店(2019年11月)。中原さんは息子の誠さん(社長)に国内を任せ、会長として海外部門を担当しています。

__________ 区の麺食本社で.jpg

冠木 雅夫

喜多方ラーメンについては、蔵の街喜多方老麺会の「喜多方ラーメンよもやま話」もご覧ください。

bottom of page